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特別寄稿

Contribution

驚くべき江戸の街つくり

では、大都会である江戸の街などではどうでしょうか。
江戸でも庭先には、どこの家でも、特にお屋敷なら必ずといって良いほど、
庭には何らかの木を植えていました。
なぜそのようなことをしたのかといえば、田舎の民家にあるように、
自分の家を建て替えるときの木を栽培するということではなくて、
そのような自然との「共生」を大切に使用という、意図、気持ちを大切にしたからです。
だからこそ、庭に木を植え、大切にそだてていたのです。

その江戸の町ですが、たいへんおもしろい特徴があります。

江戸の街は、どの家も全部「切り妻」と呼ばれる屋根で、
必ず屋根が通りに面しています。
なぜ建物が同じ方向を向いているかというと、火災対策のためです。

建築物がすべて木造ですから、江戸の町に火事は大敵です。
その火災が発生すると、町火消しなどがやってきます。
その火消しの絵をみるとわかるのですが、
彼らは水やバケツを手にしていたわけではありません。
火消しさんたちの得物は、さす股や鍵のついた棒です。
なぜこのようなものを手にしていたかというと、
江戸の消火は火を消し止めるのではなく、
建物を破壊して延焼を防ぐのが主な方法だったからです。

こうした道具で、延焼しそうな家を引っ張って倒しました。
どうして引っ張ったら簡単に倒れたかというと、家の構造自体が、最初からそのように作ってあったのです。

これを「鼻栓(はなせん)」といいます。
火災が発生すると、火消したちが、延焼しそうな家の鼻栓を抜きます。
すると、鍵でひっかけるだけで家が簡単に倒れる。
そのために、家の屋根の向きまで、みんな同じ方向を向かせていたのです。

江戸で大火があったり、新しく流入した人口が増えると、江戸では、木材を調達して家を建てました。
その木材は、幕府直轄の御用林で育てました。
木が大きく育つまでには、それこそ100年、200年とかかります。
その間、幕府の経費で、林業を保護し、森の木が健康に育つようにしていたのです。

こうした手配は、地方大名も同じです。
大名自らが、森の経営をし、林業を保護して森の木を育てていました。
つまり、農家などが自分の家を建て替えるために、裏庭に木を植樹したことと同様のことと、幕府や全国の大名たちは、もっと大がかりに行っていたわけです。

こうした森の保護は、我が国ではとても歴史が古いもので、日本神話にも、スサノオが髭(ひげ)を抜いて放つとそれが杉の木になり、胸毛を抜いて放つと檜(ひのき)に、尻毛は槙(まき)の木に、眉毛は樟(くすのき)になったと書かれています。
つまり、森の木は、神様でもあったのです。

神様だから、人は木を大切にしました。
日本が太古の文明を持っていながら、いまだに砂漠化せず、木があるということは、古代の人々が木や森を大切に育てていたという証(あかし)です。
そして有史以来では、森の樹々は神として、国をあげて大切に育んできたわけです。

ところが、戦後の日本はどうでしょう。
核家族化し、家を建てることにはたいへん熱心だけれど、森を保護することについては、何も手が打たれていません。保護のない林業は、いまやさびれる一方です。

事実、ほんの20年前までは、植林によって形成された日本の山々の森は、植林ですから、等間隔に同じ高さ、同じ種類の樹々が整然と生えていたのに、いますっかり様変わりしています。
山々は完全に雑木林となり、森の緑も、そこここで色合いが違っています。色合いが違うということは、そこでは、すでに植林した樹々が枯れはじめ、別な雑木が森を浸食しはじめています。
かつて計画的に成育が営まれたいた森は、高度成長の終わり頃からは放置状態となり、いまやすっかり荒れ放題になっているのです。
政府に林野庁はあるけれど、予算もなく、林業の保護にまでまるで手が回っていません。

戦争が終わった時、外地から、約600万人が、日本に帰国してきました。
普通の国なら、600万人の失業者の群れが都会に帰ってくれば、そこにはスラムが形成され、治安は悪化し、暴動などの巣窟となります。
ところが戦後の日本がそうはならなかったのは、冒頭にあるような大家族を主体とした民家が、まだ田舎に残っていたからです。
600万人の復員してきた失業者の群れは、それぞれの実家のある田舎に帰りました。
そこには、何世代にもわたって生活できる大家族用の大きな家がありました。
だから、日本はスラム化もしないですんだのです。

いまはどうでしょう。戦後に大幅改正された建築基準法は、住宅を核家族用に細切れにしてしまいました。 家に庭があっても、ガーデニングが精一杯で、そこで家を建て替えるための木を植えるなど、考えもつかない狭さです。

きっかけは、GHQの政策でした。空襲によって焼け野原となった都会で、住宅を供給するために、GHQは「9坪政策」というものを打ち出しました。別名を「ウサギ小屋政策」といいます。
これは6畳1間に4畳半、風呂、台所、トイレに押し入れだけの平屋です。敷地はだいたい10〜13坪です。いまでいう仮設住宅に近いものです。戦後は、こうした平屋建ての一軒家が大量に建てられました。

当時は、家そのものが焼かれて、ない状態だったわけですから、とてもありがたいものでした。
ところが、戦後復興がようやく一段落し、さてこれからは仮設住宅ではなく、本当の住宅をとなった昭和25年5月に、GHQによって建築基準法が発布されました。

この法律は、もともとは大正時代につくられた「市街地建築物法」を抜本改正したものです。
「市街地建築物法」は、その名のとおり市街地における住宅建築を対象としただけのものです。
もともと市街地というのは、古来、民家は借家が中心でした。
家、屋敷は田舎に大きな家があり、あくまで市街地は仕事をするための仮住まいです。
仮住まいですから、家は小さくても良い。その代わり、交通などの利便性が良い方がよい。
あたりまえのことです。
ところが昭和25年の建築基準法は、そうした市街地、田舎の区別なく、一律に住宅建築をウサギ小屋に規制してしまったのです。

さらに昭和29年には、民法が施行されました。
ここでは、相続について、従来の長子相続が改められ、この数だけ分散相続する相続法が規定されました。
この分散相続というのは、実は日本では鎌倉幕府がその政策で失敗し、7代140年で幕府を崩壊させた元凶として、後に「たわけ」と呼ばれた政策です。
おバカのことを「たわけ」といいますが、その「たわけ」です。「たわけ」は、「田分け」、つまり分散相続によって、土地そのものが細切れとなり、結果として土地を使えなくしてしまうことを言います。

財産というものは、お金でも、田畑でも、寄せ集めて広く大きなものにするから、資産価値が出るのです。
1坪の田んぼでは、誰も食って行けませんが、数千坪の田んぼがあれば、そこでたくさんの人が生活でき、生き残ることができます。
だから財産は寄せ集めたほうがいい。これを「田頼り」といいます。「頼りになる」の「たより」です。

もともと市街地の建築物を対象とした市街地建築物法を全国一律の建築基準法に改悪し、さらに相続制度の改正によって、家族ごとの資産運用が不可能になり、戦後の日本の住宅建築はカタチがどんどん変わって行きました。

それでも昭和40年代くらいまでは、人々は家を建てるときには、自分が死に、子の世代になっても同じ敷地内で生活できるように、土地は100〜150坪の家を建てました。
それなら、自分が死んだあと、二人の子供に、50〜75坪の土地を遺してあげることができると考えたのです。

けれど、その土地はさらに細分化され、いまや30坪が基準になりました。
こうなると、家屋も土地も、一代限りのものにしかなりません。
そして新・建築基準法によって、家の耐用年数も、木造住宅なら25年と決められました。

土地が30坪、建物の耐用年数は25年。
そのどこにも、「共生」という思想はありません。
米国と同じ、「使い捨て」の思想しかありません。
親が死に、妻と子供が二人が残されれば、子ひとりに配分される土地は7坪半です。
これでは人が住むことはできませんから、子供たちは成人すれば、親元を出て、別なマイホームを建てたり買ったりする。
すると、住宅地が無尽蔵に必要になる。
そのために、次々と農地が破壊されていく。
建築物の材料にはシロアリなどの虫に弱い外材が利用され、日本の森は荒れ放題。
政府も森林保護にはまったく無策。

先の大戦中の日本の人口は1億人です。
いまの日本の人口は1億2700万人です。
実は日本の人口は、戦後、たった2700万人しか増えていないのです。
これが何を意味しているかというと、平均年齢が伸びた分しか、
人口が増えていないということです。

ところが昔あった青々とした田んぼや畑は、いまやどこもかしこも住宅地です。
その住宅地も、あと50年もすれば、もはや住民は死に絶え、もしかしたらゴーストタウンです。
いま、第一種住居専用地域となっているところは、将来、どのようになるのでしょうか。

戦後の日本は、いったい何をやってきたのでしょう。
江戸の昔、家を建てるに際しても、日本人は自分より何代も先の、
まだ生まれてもいない子孫たちのことまで考えて、家作りを行い、
未来の子孫のための立て替えようの木まで育てていてくれました。

けれど、戦後世代の私たちは、子や孫、あるいは曾孫、玄孫のためにいったい何を遺しているのでしょうか。
特に平成になって以降の失われた20年、日本は何を残しているのでしょうか。

2020年の東京オリンピックの招致が決まりました。
世間は7年後の未来像がやっと描けるようになったと大喜びしています。
けれど昔の日本人は、たった7年どころか、100年先、200年先のことを考えて、木を育て、森を育み、家を作り、子孫の繁栄を願って生きていたのです。

日本を取り戻すということは、もちろん一義的には、いまのデフレ経済から脱却し目先の景気を回復することがあります。
けれど、その奥には、何千年もの間、ちゃんと子孫の繁栄までをもきちんと考えて生きていた、
昔ながらの日本人の心と社会を回復させることがあるといえるのではないでしょうか。